救いという言葉についての一考察

遅ればせながらあけましておめでとうございます。本年も

よろしくお願い致します。

 

今日まで更新がなかったのは今年は少し内容を変えて

いこうと考えまして、でもなかなかその考えがまとまらな

かったので本日までのびのびになってしまいました。か

と言って考えがまとまったのかというとそこまできちんと

整理できたわけでもなく、手探りで調整しながら更新して

いこうと決めたわけなのです。

 

さて、最近になってよく考える事の一つに救いという言葉

についてあれこれと思考するという感覚が今の私にはあ

ります。救い、きっと高次元らしき問題を抱えている人、そ

して逆に生死にかかわるような生きるという問いに直結し

ている瞬間に携わる人達が多く口にするという印象が今の

私にはあります。誰かを救いたい、自分が救われたい、こ

れは一見すれば同じ感情から生まれる言葉だと思いがち

ですが、どこかで決定的に違う気がします。

 

誰かを救いたい、これはその言葉を受け取った相手が過

敏になりやすい言葉です。得てして施しを受け取るという印

象に陥りやすいからです。それか自分を踏み台にしてこち

らの方が優位な立場に立っていることを確認する行為だと

感じてしまったら、それはもう救いではなく依存になってしま

います。それほど誰かを救いたいという言葉には重みとそ

の言葉を文字通りの意味で使うことができているのかとい

う問いを常に問われているような気がします。誰かを救い

たいと言いながら言った本人の方が誰かの救いが必要

そうに見える、それでは言葉通りの意味を相手は感じてく

れないでしょう。

 

反対に自分が救われたいと言うのはどうかと考えた時、人

はそう簡単に救われたいと言えるものなのだろうかと思え

るのです。人様に迷惑かけず自立した人生を歩む大人に

なりなさいと教えられる一方で、失敗する事を許さず、減点

式に評価を行い、甘えという名の子どもっぽさを良しとする

世界の中で、救われたいと言ったところで『なぜ分かってい

ながらうまく対処しなかったんだ』という暗黙の言葉に押し

つぶされてしまうのではないかと、そういう部分がこの世界

の中に、今書いている文章を理解できる人達が住んでいる

世界に存在しているのではないかと私には思えるのです。

 

救いの専売特許は神や仏が所有するところでもあります。

いろんな宗教、宗派によって救いの定義は違っているので

しょう。でも自分では本当にどうしようもない事に対して何か

を求め答えがでないまでもその話し相手、聞き役としての神

や仏を必要とする行為に「不信」を感じる人はいないのでは

ないかと私は感じるのです。人間はすべての現象や行いに

答えを用意できているわけではない、だからと言ってそれら

について考える事を放棄し、盲信に走るのならそれは注意

すべき事だとは思いますが、神経ギリギリのところまで自己

を追い詰め、自らが欲するところの真理を正常という名の崖

から谷底の闇深い先を見つめる時、その正常と帰ってこれな

い闇とのつなぐ命綱として救いというものが存在しているので

はないかと思うのです。

 

そうなると信じる、信じないが問題ではなく人間が人間と

して存在できうる最後の切り札として救いという言葉とそ

れにともなう行為が存在しているのではないかと思えるの

です。これが救いという言葉を考えた時浮かんでくる感覚

です。

 

実は最近私にもこの人を救いたいと思える人が現れました。

私の一方通行な思いですが、なかなか通じなくてどうなる

事か予想もつかなくて、しかも枝葉を綺麗にすれば大丈夫

なんじゃないかと思っていたら根の部分からやっていかない

と何度でも同じ事やらかすと分かってさらに試行錯誤の日々

です。でもその試行錯誤を思考することが楽しい、難しいけ

ど楽しい事が私にとって何よりの人生のようです。